振り向けば、嗤うまりか。

進撃に、リヴァイに、短いレイヤー半生を持っていかれました。悔い無き選択だった。原作はさいごまで見届ける覚悟ですが、捏造パロディ色々好きなだけやらかしつつ愛を燃やし尽くしたいと思います。たまに溺愛しているちびエレリ出没。
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進撃に、リヴァイに、短いレイヤー半生を持っていかれました。悔い無き選択だった。原作はさいごまで見届ける覚悟ですが、捏造パロディ色々好きなだけやらかしつつ愛を燃やし尽くしたいと思います。たまに溺愛しているちびエレリ出没。
こんな夜更けに

こんな夜更けに

バナナかよ、を大晦日に観てきたわけで。それはもちろん年初めの風邪ひき撮影を念頭に置いてのことだったのだけど、やはり良かった。内容は然ることながら、演じるとは楽をしてはいけないのだと改めて戒められたきがしたから。

たったの数か月で何年もの月日を再現する映画やドラマにおいて、歳を重ねたその人を表現するためには。或いは、病を抱えた人間の病状の進行を表現するには。見た目を変えるしかない。装い、体型。視覚から入る情報の果たす役割はとても大きい。見た目は美醜よりも生き様や人となりやその人の想い、精神を表現する大切な情報なのだ。鹿野の病の進行につれて大幅な減量をした大泉洋。人工呼吸器を着けた後の鹿野の衣装は、首元を隠すものへと変わっていた。そういうものが、役者の演技そのものに加えて物言わぬ演技をするのだと思う。

比べることはおこがましいけれども、捏造撮影において一番やってはいけないことは【過去の自分との被り】だと思っている。当然「使いまわし」もその一つだ。
撮影に使った衣装や小道具は【その人】を表現するために選んでいる。中身が同じでも違う人生を生きる他人を表現するのだ。使いまわしたら意味がない。限りある表現力を助けてくれるものが衣装であり小道具だとしたら、それを使いまわすのは表現に対する妥協であり怠惰だと思う。これを表現したいという思いを込めて選んだ衣装や小道具なのだから、それが被ればきっと表情も表現も被ってしまう。そういうものだと思う。

だから何だって話だけどね(笑)過去の風邪本を見ながら、同じものを使うまいと必死に足掻いている。から、違う男が伝わると、いいな。
きのう

きのう

すごい勢いで沢山の閲覧履歴が残っているんですけどなにもしなくてスイマセン。年越しの瞬間何か芸とかするかと思われたのかな。深く眠りに落ちてました。スイマセン。

年末の撮影納めはエレンとリヴァイで登る陽と共に撮影をして頂いてきました。そしてそれは、改めてリヴァイにとっての空が持つ意味を考え直すきっかけになった、ような気がした。明るむ空より暮れる空、が似合うのだ、彼には。
希望をと言いつつも、いつも終わりを視ている人なのだ、彼は。

斜陽、落陽、落日。燃え尽きるかのようなイメージばかりかもしれないけれども、その瞬間の燃え盛るような太陽は恐らく夜明けのそれより強く美しい。恐らく常に死を視て死を覚悟した身の放つひかりは、そのようなものなのだろうと思う。
色々と激動の

色々と激動の

夏秋冬が終わり、一つの選択と決断もして、漸く一段落ついたかなと思っている。
彼が存命のうちに祝うことができる最後の誕生日になるかもしれないけれど、悔いはない。抱えきれない不安はあるけれど、覚悟もできた。

どなたか失念したけれど、解釈として「もう時代を変えていく人ではなくなった、変革の象徴としての役割を喪った」姿が今の彼であると述べている方がいた。
私にとってはそうではない。彼はあらゆる可能性だった。不屈の象徴だった。希望だった。憧れだった。愛すべき不器用者であり、だからこそ私は彼を全力で愛した。彼が生きる世界を望んだ。彼が想うことを夢想し、私もまた夢を見た。そしてそれは、恐らくずっと輝きを喪わない光だ。時代がその場を過ぎ去ろうともずっと光り続ける。

人はとどまっていることはできない。勿論、自分も含めて。けれども、彼を愛した証は消えない。消えない、ひかり。

今年も沢山の夢を見させてくれて、ありがとう。幸せだったよ。
そして思うことは

そして思うことは

カレンダー企画、やってよかったあああああ!ということ。
正直発送直前までは後悔してた。時間ないって言ってるのにどうしてまたこんな手間のかかることをするのか、自分で自分を締め上げたくなった。

自己満なのはわかっている。でも、写真は生き物だから、血の通ったいのちだから、その生きている瞬間を写し取ったものを形にしたかった。しかも、一年という時間の流れの中に溶け込む存在として。何て贅沢。何て自己満足。
分かってはいるけど、でも願わくばアーティストリヴァイさんをずっとずっと生かしたかった。最終回が終わってもまだ語られない物語が続いてくみたいに。

そんな自己満足の結晶を受け入れてもらえて。しかもメッセージまで頂いて。私は、私が大好きだと思っているリヴァイさんがこんなに愛してもらえることが死ぬほど嬉しい。優劣でも勝ち負けでもなくて、ただ好きなことで心が繋がることが嬉しい。

通販っていうのはとても特殊なものだと思っているから、心も込めるしこれまでに通販して下さった方はほとんど覚えていると思う。たとえ一瞬だったとしてもいい、関わってくださったことを嬉しく思う。ありがとうございます。心から。
カタログみたいな

カタログみたいな

写真集だけは作るまいと思ってきた。それは、生き様を語るものであってほしかった。そして、捲る度物語を感じるものであってほしかったから。

でもなぜかこのテーマに関してだけは、カタログでもいいんじゃないかと考えている。その魅力的な部分を余すことなく伝えるのだ。クルマに惚れ込んだ男の生活の、その一瞬一瞬が如何に素晴らしいか。

最高の眺め、彼だけが知るその角度、そのカオ。それに寄り添う男もまた、オイルまみれの横顔ですらどこかとても魅力的に見える。
そんなふうに感じてほしい。クルマ、欲しいな、って思ってもらえるような、そんなカタログである。
人魚の

人魚の

眠る家を観てきた。予告編の色がものすごく気になったのと篠原涼子の演技にただ惹きつけられたから。…のわりにめった刺しになってみっともなく泣いて帰ってきた。またかよ。

正直観なけりゃよかったと思うくらい傷ついたよ。こんなに苦しい思いをしながら最後まで食いついて観た映画は初めてだった。それくらい壮絶だった。ズタズタだ。だから、観てよかった。正気でもあり狂気でもあるあの演技は凄まじかった。脳死問題がどうとか散々小論文で書いては見たけれど、そのどれもが呆れるほど薄っぺらい血の通わない理想論だと思い知った。

そしてね、人ならざるモノに異常なほどの愛を注いでいる自覚のある自分にとっても、「死んでいる」我が子に全てを犠牲に献身的な介護をする姿は痛くて仕方がなかった。『君にとっては生きているかもしれないがそれを人に押し付けるな』『この家の中でしか生きていない。一歩外に出れば見世物だ』そして、『まやかし』だとさえ表現された、一つのいのち。

自分も生を押し付けているだけなのか。表情筋を人工的に操作するように人形の微笑むように見える角度を探っては(笑っている)、と満足して恍惚の笑みを浮かべているだけなのだろうか。
あの眼を見たか。思い込むものとそうでないもの、信じるものとそうでないもの、その間には明らかに違う眼がある。生と死を分かつ眼は残酷で正しく恐ろしい。

心臓死か脳死かということに限らず、選ぶことができるというのは苦しみでもあると最近思う。選択の自由ではない。選択の苦悩だ。選べるからこそ迷い苦しみ、選んだ自分を責めるのだ。

それでも救いがあったのは最後に逝く娘の遺した【ありがとう、幸せだったよ】だろう。それは、著者の優しい答えだと思った。間違いではなかったのだ、と。

【もう逝くんだね】
憑き物がとれたかのようなこのセリフが忘れられない。いつか自分も、そう言う日がくるんだろうか。

時間もキツイが編集を急ごう。

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