眠る家を観てきた。予告編の色がものすごく気になったのと篠原涼子の演技にただ惹きつけられたから。…のわりにめった刺しになってみっともなく泣いて帰ってきた。またかよ。
正直観なけりゃよかったと思うくらい傷ついたよ。こんなに苦しい思いをしながら最後まで食いついて観た映画は初めてだった。それくらい壮絶だった。ズタズタだ。だから、観てよかった。正気でもあり狂気でもあるあの演技は凄まじかった。脳死問題がどうとか散々小論文で書いては見たけれど、そのどれもが呆れるほど薄っぺらい血の通わない理想論だと思い知った。
そしてね、人ならざるモノに異常なほどの愛を注いでいる自覚のある自分にとっても、「死んでいる」我が子に全てを犠牲に献身的な介護をする姿は痛くて仕方がなかった。『君にとっては生きているかもしれないがそれを人に押し付けるな』『この家の中でしか生きていない。一歩外に出れば見世物だ』そして、『まやかし』だとさえ表現された、一つのいのち。
自分も生を押し付けているだけなのか。表情筋を人工的に操作するように人形の微笑むように見える角度を探っては(笑っている)、と満足して恍惚の笑みを浮かべているだけなのだろうか。
あの眼を見たか。思い込むものとそうでないもの、信じるものとそうでないもの、その間には明らかに違う眼がある。生と死を分かつ眼は残酷で正しく恐ろしい。
心臓死か脳死かということに限らず、選ぶことができるというのは苦しみでもあると最近思う。選択の自由ではない。選択の苦悩だ。選べるからこそ迷い苦しみ、選んだ自分を責めるのだ。
それでも救いがあったのは最後に逝く娘の遺した【ありがとう、幸せだったよ】だろう。それは、著者の優しい答えだと思った。間違いではなかったのだ、と。
【もう逝くんだね】
憑き物がとれたかのようなこのセリフが忘れられない。いつか自分も、そう言う日がくるんだろうか。
時間もキツイが編集を急ごう。