カランカラン。
ドアベルの音を聞きつけて、店主が洗い物の手を止めてカウンターから顔を出す。
「すいませんね、生憎ランチは2時で終わっ…おや、大将」
店に入ってきたのは、青いつなぎの上半身を脱いで腰に巻いた小柄な男性。この辺りではちょっとした名物整備工場のチーフメカニックだ。
「朝から飲まず食わずでぶっ倒れそうだ。悪いが何でもいいから食わせてくれないか」
そう言って首を傾げる常連客を追い返すような店主ではない。エプロンで濡れた手を拭い、苦笑しながらカウンターから出てきて、片付けたばかりのメニューを置いた。彼の気に入りの席だ。
「久しく顔を見なかったから、また熱でも出してぶっ倒れてるのかと思いましたよ。さて、何をお作りしますか」
「悪いな、ありがとう」
店主に礼を言い、馴染みの席にどかりと座り込んだ男は「つうか、いつの話してんだ。少し忙しかっただけだ」と眉をしかめてみせた。だがメニューを開くなり、そわそわと見るからに嬉しそうな顔になる。
「全然代わり映えしねぇな。おすすめは何だ」
「余計なお世話ですよ。夏野菜のパスタはいかがですか?今月までの限定です」
「そうか。ならミックスサンドとプリンアラモードを頼む」
さっさとメニューを閉じておしぼりで手を拭き始めた男に苦笑しながら、店主はかしこまりました、と一礼する。天邪鬼なやり取りと、この男の、およそ外見に合わない注文は店主の楽しみの一つだった。
腹ぺこらしいメカニックのために急いで腕を振るいながらちらりと様子を伺うと、彼は熱心に車の雑誌を捲っている。相変わらずの車馬鹿のようだ。
「クルマばかり見てないで見合い写真でも見たらどうなんです?ジジイになって1人は寂しいもんですよ」
「それこそ余計な世話だよ、クソジジイ」
口の悪さも相変わらずらしい。
それでも店主は知っている。彼が男女問わず多くの人に慕われていること。そして彼に思いを寄せる人物が彼のとても近しい場所にいることも。喫茶Begegnungで交わされる沢山のおしゃべりを耳にしている店主の特権である。
「お待ちどうさま。デザートとお食事、一緒にお持ちしてよかったですね?」
「ああ、ありがとう。うまそうだ」
出来たてのミックスサンドと自慢の特大プリンアラモードをテーブルに並べると、男は雑誌を閉じ、もう一度丁寧に手を拭いた。表情の分かりづらい男が、好物を目の前にしてほんの僅か口元を緩めるのを、店主は微笑ましいと思っている。
「ごゆっくり。どうせランチの時間は終わってますんで」
「悪かったと言っているだろうが。ああ、うまいな。やっぱりここのメシが1番だ」
「そりゃどうも、光栄です」
真っ先に生クリームから口にしてそれはどうなんでしょうね、と言いたいところだが、彼が必ず食事を綺麗に平らげることは分かっているので、店主はただニコリと微笑みかける。
厳しい仕事ぶりで知られるこのメカニックの男が、実は甘いものに目がない、などと教えてやったら喜ぶだろう人間の顔が思い浮かぶが、店主が誰かにそれを話すことは決してない。彼がそういう姿を見せる相手は、きっと彼自身が選んでいるに違いないのだ。
「ちゃんと休みも取ってくださいよ」
「分かっている。あと少しなんだ」
いつも同じやり取りだな、と思いながら、店主は中断していた皿洗いを再開する。これ以上の会話はもう必要ない。男が求めているのは美味い食事とひとときの安らぎなのだから。
「ごちそうさま。うまかったよ、次は2時までに来る」
ふと店主が顔を上げると、カウンターに空の器と代金ぴったりが載せられて、つなぎの後ろ姿が片手を上げて出ていくところだった。
「ああ、ありがとうございます。行ってらっしゃい、リヴァイさん!」
ひらひらと手を振る背中は今日も小柄で、そして逞しい。頑張ってくださいよ、と心の中で声をかけ、店主は最後の洗い物を片付けた。