生きているということは、同時にゆるやかに死につつあるということでもある。
クロノ・クロスプレイしたことがある方ならわかるよね。ミゲルの台詞です。これが私たちの定め、生きる者の定め。今日が終わると明日が来るけど、その分生命の砂時計は確実に砂を落としているんだよね。変わりばえない毎日を惰性で過ごしていると忘れがちだけれども。
こうして、何気ないひとときをぼんやり物思ってる間も少しずつ、残りの砂は僅かずつ減っているわけで。私は残りの人生でどれだけのことができるんだろうと思わずにおれなくて。
例えば謙也さんと蔵の将来を考えると、家庭を築くのは絶望的なわけで、けれど支えになりたいとか隣を誰にも譲りたくないとか。謙也さんに至っては弱みを見せられる唯一の相手になりたいとか、そんな関係を願っていると思う。一般的なライフルートを正確にたどることができなくても、そんな相手ができたとしたら。そんな相手と、ゆるやかに死に向かって歩んでいけるのだとしたら。きっと旅の終わりには後悔は残らないだろうと思う。生きた証は遺伝子の継承としてではなく、互いの心にしか遺らないとしても。
コメントを書く... Comments